言葉だけが最後に残る - 鷲はいまどこを飛ぶか
- もっと早く知りたかった
- 人生の追跡、とりわけ日記を書いているモチベーションについては、この記事の趣旨と完全一致する
- まあ僕は写真も残るとは思いますよ
- 細かいコンテキストは削がれてしまうが、文章では絶対に表現できないディテールを写真は持っていると思う
- 細かいコンテキスト、とりわけ「いつ」「なぜ」撮ったのかというのは失われてしまうだろうが
- この「いつ」というのは日付や時刻だけではなく、もっとハイコンテキストな、いわばシャッターを切ったタイミングのようなもの
- 旅行中?誰と一緒にいるとき?
- シャッターを切るタイミングとして何を基準とした?被写体の動作?位置?「はいチーズ」の掛け声?話の流れ?
- 「最後まで残る」とはいえないものの、人間の記憶が写真を起点として想起されることもあるのではないかと思っている
- 言葉を写真に添えるのがいちばん良いということ
- 写真はそのままだと良くも悪くもありのままを映しており、それはつまり不要な情報も含めて全てがありのままというわけで、そこが良い
- 文章は良くも悪くも恣意的な情報の取捨選択が介入する
- 写真もまあ画角とかである種の「切り取り」が発生していると言えるか……
- 必要な部分のみを、あるいは写真として現れないコンテキストを、言葉として残しておくべきだ
- それなら動画も残るのでは?と思ったが、画像では残せないものをなぜ動画が残せるのかというと、そこには音声があり、つまり言葉があるから
- 「連続した写真」としての動画は、人生の追跡という面においては本質的ではない
- 各フレームの写真それぞれに対して、半強制的に音声情報として言葉を残せるので、強い
- 動画の音声は言語だけとは限らないだろ!風の音、虫の音、電車が通過する音、何らかのメロディ……いずれも記憶を叩き起こすトリガーとして強力である可能性がある